あいの似姿(仮)

起きぬけでよどんだ頭は、部屋着に残る体温だけを感じている。冬場の台所は冷たい。このまま淋しさが敷き詰められているような空しい空間に取り込まれていても仕方なかった。喉が渇いたので水を飲む。水垢のこびりついたシンクにダバダバと流れ落ちる流水が妙に不安を誘う。冷たい水を一気に飲み干した。電灯も付けないでいるので、薄墨色に濁った夕日がカーテンを開けるとよく見えた。しばらく眺めているとポツポツと佇む街灯しか見えなくなってしまった。そのとき、ガサゴソと音がした。襖を隔てた向こう側にはおとうさんが居る。今は、もう二十時……私は何時間寝ていたんだろう。ヒーターのスイッチを回してカゴに積まれたみかんを三個とった。ひとつはつぶれている。爪を切ったばっかりに剥きにくい。お腹減ったな。指先が黄色に染まっていく。ママはまだ帰らない。

体重を乗せるようにして掌を私の頬にぶつけた。赤く点滅した視界の先にぶるんと脂ぎった厚い皮膚が鈍く揺れたのが見えた。指先が耳に当たったのか、左耳からは膜がかかったようにしか、音が聞こえない。距離感の掴めない面倒な音波が聞こえる。いつまでもチャンネルは合わないでグルグルと無心でツマミを回しているような気分になる。この人は……いつも何かに対する怒りを我慢出来ずに、抑えようともしないで衝動的に私を叩く。次の日には当たり前のように冷蔵庫には私が小学生の時にたまに欲しがった、スーパーで売ってるだろうプラスチックの蓋が被さった苺のショートケーキが鎮座している。少しでもカロリーを摂りたいので食べると満足したように私と台所を隔てるふすまの妙な隙間をそっと閉める。そのうち鼻につくタバコの匂いがベランダ側から漂ってくる。このスーパーのケーキが、私の値打ちだ。今でもおとうさんの頭の中の私は小学生のときの私で止まっていて、目の前にいる私は私という記号でしかなくて実体なんかじゃなくて、ただの昔の私を投影するためのスクリーンなのかもしれない。(ほだし生縛り)

「ねえ!どう、コート買ったの。似合う?」美香が嬉しそうにぐるぐると一回転してみせた。その瞬間、私には全て分かってしまった。白のダッフルコートをまとった彼女は、自分の可愛さを知ってしまっているのだ。自らの容姿の魅力を理解していて、それをふんだんに利用しているのだ。自信があるのだ、自分に。ソレを自信満々に自慢げに着ても、だれからも白い目で見られないという自負が。私には明るい色のものを着る勇気がない。特に真っ白い色のものなんてなおさら着られない。これは私の思春期にぶくぶくと育ってしまった自意識過剰なルール意識のせいでもある。私がまだそういうものに過敏になる前の小学生の頃でさえ、その色自身が「女の子」の象徴的な存在であり、それを猛烈にアピールしているピンク色の物を持つことを気恥ずかしく思って、というかかわいこぶりっ子しているような気がして避けていた。中学生になると、友達共々陸上部に入部することにした私には身に付けるものについて先輩たちから事細かにルールが課せられていた。そのルールはどうしようもなくどうでもいいもので、馬鹿みたいで理不尽だけど、でもとても大切なものだった。少なくとも穏便に過ごしたい私にとっては絶対に守らなきゃいけない決まりだった。一年生のうちは靴下の色は白じゃないといけなかった。二年生になってやっと紺のソックスが履けるようになる。入部してからすぐには三年生の先輩たちは「ウチらが苦労したからあんまりそんな感じのことはしたくないからあんまり気にしないで」と優しい態度を見せてくれた。だけどいざ紺のソックスを履けばほかの部活の三年生がすれ違うとき、全校集会のとき、足元をちょっと見ていくのだ。結局私たちは最初の一週間くらいで履くのをやめた。優しいそぶりをしてくれた先輩たちも別に優しいわけではなく、お互いにぎこちなく妙な距離感だった。やはりどこまでいっても先輩たちは怖かった。かばんもそう。スクールバッグも二年生から、リュックは三年生になってから……。一年生の冬場のカーディガンは地味な色。防寒具も派手じゃないの。晴れて三年生になっても、私のような女はパステルカラーのカーディガンなんて着られなかった。可愛い女の子達はパステルピンクやブルー、真っ白いカーディガンを何のためらいもなく着こなしていた。コートだって子供じみた野暮ったいダッフルコートしか買わなかった。高校生になっても結局選んだのは安売りのユニクロのダッフルコートだった。学生のうちにPコート着ておくんだったな。どんなに流行りのコートを買ったって私には何にも似合わない。今年もダウンかモッズコート。それかフードがついたやつ。ノーカラーはお上品すぎて私には合わないし、チェスターは着る勇気がない、何もかも似合わない。また暗色の中に沈んでいく。冬になり、新しいコートを買おうとする度に思い出すのだ。もうここまできたら呪いみたい。みたい、じゃなくてそのものかも。私は私であることを誰よりも分かってるのに、店に入って鏡を見る度に、私が着てはいけない色なんだと何度思っただろう。もうすぐオバサンになってしまうからその前に、そんな思い出を振り切りたくて買ったはずだったのに……。ラストチャンスだったかもしれないのに。クローゼットの中の新品のコート、真っ白いロング丈のダッフルコート。店員さん曰くロング丈なら大人が着ても違和感ないんだってさ。まあその場だけのテキトーな嘘かもしれないけど信じてみたのよ、あの日は。財布も新調したかったけど半年ほど我慢することにしたの。コツコツ貯めたへそくりじみたお金もそのためのものなの。それを難なく着てみせるのね、美香ちゃん。「すっごく、可愛い」私は吐き捨てるみたいに感想を呟いた。ちょっと背が低くて、毛先を巻いてて、色白なカワイイ女の子。まだ若くて、未来もあって……私が欲しかったものをすべて。もう私はこんなところまできてしまった。「ホント?ねえ、変じゃない?」ううん、とっても可愛いの。「変じゃない、似合ってるよ」似合ってるよ美香、泣きたくなるくらい。

「ただいまー !」私が玄関の鍵を開けると、美香は誰もいない部屋に向かって挨拶した。パチと明かりを点ける。「あんたん家じゃないでしょー」ぼやき気味に呟くと美香は靴を揃えてリビングへと入っていく。「でもほぼほぼ私の家だよ、もうね」これだけ入り浸っていれば、まあ……というより彼女よりも滞在期間が短い家族が居ることが問題かもしれない。私の夫は今日も忙しいものね、結構なことだけど。エライ大荷物ね、ぶら下げたバッグを見て素朴な感想が漏れた。体操服と習字道具と絵の具道具ってところだろうか、あと白い手持ちの紙箱。「重たいよ、結構。あ、ね、これ、ケーキ買ってきたの。そこのケーキ屋で、一緒に食べよー」美香が自分の小遣いで買ってきてくれたのだろうか、多分そうだろう。「え、私も良いの ?」美香は箱を開いて、あれこれ説明しだした。「これがレアチーズケーキで、これがブルーベリーとなんかのタルト……あとマカロン、フランボワーズのと抹茶のと、クッキー」よほど見せたかったのか、私の反応は気にも留めない。「でももう7時半だから、今食べたら夕飯入らないでしょ」冷蔵庫を開いて食材をしまおう。今夜は寒いので鍋にしたい。隙間を埋めるようにして詰めていく。ねぎ、うどん、つくね、鶏肉、白菜、便利な鍋の素……。「え、今日食べてって良いの。旦那さんは ?」きっと今夜も帰らないんでしょう。そうなの、私知ってるもの。「良いの良いの、どうせ帰らないから」諦めるのもとうに通り過ぎてため息混じりの返事も随分軽いものになってしまった。「そう ?じゃ、遠慮なく……」それじゃあケーキは冷蔵庫に入れておかないとね。やわらかい重みを感じる小さな箱を潰れないように一番上に置いた。(あいの似姿)