パラレルコンバータ

完全に日は落ちたが、まだ比較的車の通りは多い。僕は在学証明書を実家に送るためにコンビニで百二十円切手を買い、投函しなければならなかった。ツタの這う郵便ポストの前に立つ。肩に任せたビニール傘は強風で向こうに引っ張られそうだった。ひどい土砂降りで地面が光っていた。セロハン袋の中から切手を取り出そうとするが、静電気でひっついてめくりにくい。濡れた肩が冷たかった。僕は車のハイビームからまだらに照らされながら切手の裏側を舐めた。傘からはみ出た投函予定の封筒が水滴が染みて湿っていたので剥がれるか心配になりもうひと舐めした。僕は何をしているんだろう。さっさと家に帰ろう。時折人がちらつく微妙にしょっぱい商店街を僕は一人でとぼとぼ突き抜ける。シャッターと飲食店がだいたい交互に並んでいて、全体は風呂のタイルのような色をした昼光色に包まれていた。しばらくするとジャグリングをしている人が見えた。こんな寂れた商店街にも居るものなのかと少し意外に思う。手を繋がれた子供がじっと見ていたが、その母親は腰が引けている。早く通り過ぎたいようだ。僕も同感だ。そのまま足早に商店街を抜け、競歩のようにしてひたすら家に向かうことだけを目標にし、そのとき僕の頭の中は「水」それだけに支配されており、ようやくアパートに着く頃には額からじっとり汗が滲んでいた。僕は服を脱ぎ捨ててカビだらけの浴槽にべっとり浸かった。思わずため息が出る。最近の僕はめっぽう寂しかった。特に理由はない。そのようにして訳も分からないナンセンスな気無性に取り憑かれているときは得てして家に食べ物がなく、下ろし忘れて財布に金もなく、雨か曇りであり、部屋には洗濯物の堆積とシンクに居残る食器があった。全てにおいて気が重かった。そのふさぎ込む中、壁の押しピン跡を眺めているうちそこに何かキャラクター的なものを見出した。僕はその壁のシミじゃないが、穴三点で構成された辛うじて認識出来なくもない顔を指の腹でススと撫でた。するとその穴が喋り出した。第一声は「こんにちは」だった。そしてコミュニケーション不全の僕がそれを恐れるのは極めて自然なことだった。心底プリミティブな感情である。

道行き

横目に見た白い息は風に流されてしまった。私は両手に嵌めた防水仕様のナイロングローブをさすりながら玄関のアルミスコップを拾った。くたびれたモッズコートのフードを被り、使い捨てマスクをビニールから取り出す。上を見上げると、雲の隙間から光の筋が差し込んではいたが、太陽そのものは見えなかった。鈍色のくもり空のもとで少し鼻をすすりながらザラメ雪を掻き進んでいる。私は車の前の邪魔な雪をどかさなければならなかった。しばらくして冷えた車内に乗り込むが、フロントガラスが曇っていてまったく前が見えなかった。はり付いている霜をとり除くためにデフロスタのスイッチを押した。腿の裏まで冷たいので後部座席のクッションを引っ張ってきて敷いた。そこでようやく私はショルダーバッグのポケットに突っ込んだ携帯電話を取り出した。携帯は薄いハンカチに包まれている。垂れ下がるビーズのストラップは若干変色していて、金具は千切れてもそうおかしくはなかった。座席を倒し、仰向けに寝転んで暗証番号……を打ち込んだ。

今思えば、これがそうだったのかもしれないと思えるようなものがいくらでもあって、でもそれはそう思うからそう感じるだけであって本当はそうではないのかもしれない。その最たるものがこの累積で、それしか手がかりがなくて私は益々深みにはまっていた。その内心なんていうようなどれほど考えても無意味なことを、分かってはいるのに考えるのを止められずに、私はその都度何かを思い出してはもしかしたらと過去の可能性とかいう不明瞭なものを浮かべている。あれは暑い日だった。私もあの日、家から水筒を持って来てはいたけど耐え切れずに自販機でいろはすを買ったんだった。それもすぐにぼたぼたと水滴が垂れて、ぬるくなってしまったのだ。あのとき私は擦れて白く傷の入ったプラスチックベンチに座って向こうを眺めていた。水色のサンルーフの光がコンクリートに映って、まばらな人影と青い雑草が生えていた。そのままひたいに浮いた汗をゆっくりとぬぐって私は立ち上がり……。とめどなく溢れてくる脚色された光景を手繰り寄せていると、さざめく歓声が聞こえてきた気がした。きっと致命的な決定打はなにも無かったのだと思う。なんとなく、じゃないが、もういいかほどの。最後に重たい腕でグローブボックスから私の携帯電話を引きずり出す。混濁した意識と、不気味にぐらついた体をハンドルに任せた。脂汗が体の奥底から搾り出されているような気がした。車内に充填する息苦しさを死ぬほど吸い込んだ。どうして彼女がそうなったのか、私には分からなかった。今少しだけ分かりそうな気がする。

揺さぶり

「何かここに絵でも描いといてよ」

濃いピンクの画用紙に書いたちゃちな料金表の空きスペースを指さし、黒のサインペンを手渡した。横目で覗き見ると、ミハルは年の割には少し幼い、ちょうど女子小学生が描くようなアンバランスなうさぎやハートをためらいながら描いていた。それを見て僕は肝を冷やすような思いがした。目の前に居るミハルはやはり生身のおんななのだ。そのおんなにも未だ自分のことをよく知らないで、親の手の中に柔らかく包まれている子どもだったときもあったのだ。例えば画用紙にクレヨンで太陽や花を書き殴り、無邪気に見せびらかすような……。それなのに僕には到底手の届かないことを、彼女はこともなげにケイケンしている。少しだけ不気味であり、それでもどうにかして守ってあげたかった。それは無償で無条件の存在愛だった。ミハルにそんなことして欲しくなかった。視界の端には体の線に沿う滑らかなフレンチスリーブのワンピースからにょっきりはえているミハルの生白い太ももがあり、僕にはその肉が急に現実味を帯びたような気がした。そして薄布で隠れたその肉を想像することで僕はミハルと一体になれるような気もした。